“すずめ”文化



(財)北斎館 お土産ハンカチ (長野県上高井郡小布施町)

トップページコンテンツ堺すずめ踊り協賛会“すずめ踊り”各地伝承天神祭“船渡御”


    <参考資料>
        ◆「すずめ踊り」 フリー百科事典 ウィキペディア
                     「新仙台すずめ踊り」復興(水野二郎)
         ◆「風流踊り」   
フリー百科事典 ウィキペディア
         ◆「御迎人形」  天神祭 御迎人
         ◆その他     菓子司「雀おどり總本店」(名古屋市) 創業安政三年(1856年)
 


目 次
1.プロローグ
2広辞林
3.風流踊
 ・御迎人形
 ・天満宮奉納演舞
 ・祇園囃子
 ・御坊祭
 ・野田鯛鉾

4.絵画
 北斎漫画
5.軒飾り
6.童謡、新民謡





 津村晃佑氏(*1)は、“仙臺すずめ踊り”を「基本が昔からそのままの形」で残り、「素朴」で「純粋」であるが故に観光の目玉となっている好例として挙げています。
 伝統は創られるものですが、その「恒常性」(基本動作とお囃子)が維持され継続されておれば、その変容は新たな担い手である市民のダイナミズム(自己表現、自己実現の活力)により、常に、今に生きる芸能として新たな伝統を創りつづけ、個々に離れがちになった人々の心の絆を満たして現代によみがえらせることができます。
 平成17年、思いもよらない出会いから、歴史的に、文化的に堺にゆかりの深い“仙臺すずめ踊り”の紹介と普及活動に取り組んで参りました。これも、また大きな変容の具体例ですが、時代の背景と文化を共有した物語が、堺と仙台両市民のダイナミズムを喚起し、ここに、現代に生きる新たな市民文化の創造を目指す取り組みとして6年目(平成23年)を迎えました。


   
  *1:津村晃佑「現代に生きる伝統芸能「すずめ踊り」の人類学的研究」
                       ;『東北人類学論壇』3953頁、第2号(20033月)

 

 私たちが出会った“すずめ踊り”は、慶長8年(1603年)、「仙台城」移徒式の宴席で泉州・堺の石工たちが伊達政宗公の前で即興的に踊ったのが始まりと伝えられ、築城に関わる秘密を知るが故に帰郷を許されなかった泉州・堺の石工衆たちが、留め置かれた仙台の地で400数年にわたり語りつないで伝えてきた“思い”のこもった伝統芸能“仙臺すずめ踊り”です。
 この踊りの背景には、26歳から34歳までの若き日々を上方で過し安土桃山文化を目の当たりにした陸奥の大名・伊達政宗と中世から近世にかけて自治・自由都市「堺」で活躍した町衆(商人、職人、町民たち)との交流の絆が偲ばれ、踊りの担い手が石工衆から市民にとって代わり変容しながら伝統芸能として現代に幅広く踊り継がれています。



 『広辞林』(*2)によれば、「“すずめおどり”は雀の形に似せて翼をつけ、藁を編んだ笠をかぶってする踊り」とあります。
   
*2:金澤庄三郎編新版『広辞林』1125頁(昭和38年、三省堂)
 

 調べてみれば、思いのほか各地域に「雀踊り」が民衆の中に伝統行事として深く伝承されていることがわかりました。人々は、その時、その場所でごく身近な“すずめ”に思いを込めて親しみ、楽しんでおられます。
 各地に伝わる“すずめ踊り”とは、その源流が15世紀から16世紀に全国で踊られた芸能「風流踊り」にあるようです。
 芸態は、風流拍子物を踊りの中心の「中踊り」に取り入れ、外側には「側踊り」(がわおどり)と呼ぶ輪踊りを伴いました。お盆に踊られるため、事実上の「盆踊り」であったといえます。しかし、当時は「盆の躍り」、「盆の風流」などと呼ばれており、「風流踊り」、「盆踊り」とは呼ばれていませんでした。
 「風流踊り」は、銭とモノと人が激しく行き交った室町時代後期(16世紀)に経済力を蓄えた京の町衆に流行しました。各地に広がり、日ごろ、権力の下でおとなしくしていた町衆が「風流踊り」でエネルギーを爆発させ、男が女物の服を着て踊り回る奇抜で無礼講、反日常的な世界を形作ったといわれています。つまり、中世の踊りは男性的でエネルギッシュ。「見せたい、見られたい」という気持ちをかき立てる鉦や太鼓など打楽器を中心としたリズム音頭のお囃子に乗せた踊りでした。


    ◆大阪「天神祭」 船渡御 御迎え人形「雀踊」
    ◆風流踊 六斎会(京都) 「祇園囃子(雀踊り)」 重要無形民俗文化財
    ◆御坊祭(和歌山県)「小竹(しのう)八幡宮」    和歌山県指定文化財(第1号)
 「風流踊り」の場合、「藁で編んだ笠をかぶる」、「扇子を持たない」ことが特徴ですが、即興的にめでたさを表現する扇子を片手に泉州・堺の石工衆が踊ったと伝わる「仙臺すずめ踊り」の発祥とは基本的に違いがあるようです。
 安土桃山時代に入っていよいよ盛んになったようで、豊後・大友氏、阿波・三好氏など有力な戦国大名が「風流踊り」を城下に招聘し、地方への「風流踊り」伝播に一役買いました。かの有名な徳島の「阿波踊り」はその流れかもしれません。

   

            阿波踊り               正調雀踊り(黒田屋 第18代当主黒田孝次氏)
 豊臣秀吉の追悼となる豊国廟祭礼の際にピークを迎え、江戸時代になると歌舞伎の舞台演目としても踊られるようになり、町衆の目にとまって各地域の行事に取り込まれ、その様子は、当時の絵描き衆の画題としても注目されいくつかの「洛中洛外図」、「浮世絵」および「北斎漫画」など絵画にいきいきと描き表されています。

   ◆
洛中洛外図」屏風(町通,一条通,念仏踊(風流踊))
   ◆北斎漫画「雀踊り」 (財団法人北斎館)

 また、鉦や太鼓など打楽器を中心としたリズム音頭のお囃子にならってか、信州地方では“雀踊り”と呼ばれている特有のデザインを施した「軒端飾り」を家屋の屋根に備え付ける風習があることも分かりました。

 
       安曇野市            重要文化財・堀内家住宅大屋根         下諏訪市

 かつて庄屋や地主といった家が、その家柄や経済力を誇示するためにつけた飾り板だそうです。重要文化財・堀内家住宅大屋根のデザインは最高傑作とも云われ巨大なその姿は迫力満点です。
 時代は下りますが、北原白秋(明治18年〜昭和17年)、西條八十(明治25年〜昭和45年)とともに、童謡界の三大詩人といわれた野口雨情(明治15年〜昭和20年)は、日本各地を旅行して民謡を創作し童謡とともに盛んとなった「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、1935年(昭和10年)には日本民謡協会を再興し理事長に就任したことはよく知られております。 北原白秋とともに「雀踊り」と題して「新民謡」を作詞し発表していることは、“すずめ”がそのコミカルな姿やしぐさでいつの時代にあっても常に庶民の身近に生き続ける象徴であることを実感させられます。
  <童謡>
     雀踊り  (大正9年発表)
                     作詞:野口雨情
                      作曲:中山晋平
       雀踊りは面白や 面白や
       手拍子そろえて 面白や
       チンチンチーチク チンチンチン
       チンチンチーチク チンチンチン
       チーチクパーチク チンチンチン
       パーチクチーチク チンチンチン
       手拍子そろえて 面白や
                      以下、3番まで略
     歌唱はこちらから(日本ビクター)
<新民謡>
    雀をどり
                作詞:北原白秋
                    作曲:中山晋平

                 作曲:小松耕輔
   雀雀と蔑しめしやんな、え、
    どうせ、しがない雀ぢやとても、よ、
    せめて歌はにや日が經たぬ。
    ありやせ、こりやせ
    ありや、りやん、りやん、りやん、りやん

                 以下、11番まで略

   大阪天満宮  天神祭」船渡御 御迎人形「雀踊」

 江戸時代元禄期(1688〜1704年)頃から、御旅所近くの町々では、様々な趣向を凝らした風流人形を拵え町角で展覧したあと「御迎船」に飾り立て、この人形を「御迎船人形」というようになりました。当時庶民の娯楽だった文楽や歌舞伎の登場人物を模し、豪華な衣装をまとっています。天神祭のハイライトとなる船渡御では、川を渡る神様を出迎える御迎船に、氏子が町ごとの人形を飾る風習があり、参拝者は、それぞれの人形にまつわる伝説や芝居の筋書きに思いを馳せたり、込められた寓意を読み取りながら楽しみました。
 御迎人形は、当初(享和元年:1801年)、50体を超えていたと考えられていますが、弘化2年(1845年)には44体が確認されています。幕末・維新期の天神祭りの中止などの影響から人形は減り始め、昭和6年(1931年)には20体に減少しました。さらに、第二次世界大戦で焼失して、現在では16体だけが完全な姿で残っています。
 御迎人形のひとつとして「雀踊」があり、風流踊りの一つで編み笠をかぶり、雀と竹の模様の着物を着、奴姿で六方風
(歌舞伎役者が花道を足を高く上げ、踊りながら揚幕に入るような歩き方)に踊る姿を現しております。
 引用文献: 高島幸次『天満宮御神事御迎船人形図会』(東方出版、1996年)


御迎人形「雀踊」
(右:竹に雀の縫い模様を拡大)
人形制作地:江之子嶋西之町





<報道>
 産経新聞 朝刊
  平成23年2月19日
  平成23年2月27日










<引用資料>

1.大阪天満宮社報
 第59号、3頁(2011年)
 第58号、5頁(2010年)
 現存する御迎人形16体のうち14体が昭和48年に大阪府有形民俗文化財に指定されていました。「雀踊り」と「豆蔵」の2体は、なぜか指定を受けておりませんでしたが、平成23年1月14日に合わせて大阪府より「文化財」として指定を受け、現在保有する御迎人形16体すべてが晴れて「大阪府有形民俗文化財」の指定を受けることになりました。
 大阪天満宮では、平成16年から毎年開催されている第8回てんま天神梅まつり「大盆梅展−天神様と梅」の期間中(平成23年2月8日〜28日)、樹齢200年を超えるといわれる「野梅」など盆栽50鉢を展示する会場(参集殿)で御迎人形「雀踊」を展示公開されることになりました。
 「堺すずめ踊り協賛会」では、傘下の実技(踊りとお囃子)祭連の連合組織「堺すずめお踊り連盟」とともに、発祥の経緯は違いますが「すずめ踊り」と名前を同じくする御迎人形「雀踊」が「大阪有形民俗文化財」として指定されたことに協賛し、大阪天満宮・本殿前にて“堺すずめ踊り”を演舞奉納しお祝いしました。

奉納演舞 御祓の儀

御迎人形「雀踊」 文化財指定記念京人形

口上

奉納演舞

後方 御迎人形「雀踊


後方 天神画像


         風流踊 千本六斎会((京都)「祇園囃子(雀踊り)」

 京都「千本六斎会」の祇園囃子には、「雀踊り」という踊りが入っています。
  これは、江戸時代に歌舞伎の舞台で踊られていた「風流踊り」が取り込まれたのではないかといわれており、京の六斎念仏の中でも珍しい演目とされています


    

           風流踊 御坊祭 雀踊り


 和歌山市指淀民俗文化財に指定され、本祭りに小竹八幡神社で奉納されます。
 この踊りは奴踊りの一種で奴装束に笠をかぶり、三味線と歌に合せ雀の動作を真似た優雅で温和な踊りです。歴史的には、宝永年間(1704〜1710年))に京より踊りの先生を招き神に五穀豊穣を感謝するために稲が実るまでの農作業を踊りにしたものと伝えられています。


              

       野田恵美寿神社 「寿寿芽(すずめ)講」“鯛鉾”

 昭和4年(1929年)、昭和の御大典を記念して今の玉川連合の中、もと亀甲町一丁目に居住していた有志の人々が、「寿寿芽すずめ講」を組織し、その事業として四神鯛鉾の製作が企てられ、昭和6年に現在の「鯛鉾」が完成しました。「鯛鉾」の四隅には、東西南北の神である青龍せいりゅう、白虎びゃっこ、朱雀しゅじゃく、玄武げんぶを描いた旗すなわち四神旗が立てられ「四神鯛鉾」と称されています。
 「寿寿芽すずめ講」の謂れからか、「鯛鉾」の側板には“すずめ踊り”の姿がくりぬいて彫り込まれています。

 「野田鯛鉾奉賛会」の要請で、平成18年よりまちづくりを盛り上げるために“泉州堺すずめ組”が協賛し地域の皆さんとともに“すずめ踊り”を披露し、野田恵美寿神社へ奉納しております。


鯛鉾(左)欄干側版の「雀踊」


すずめ踊り奉納  「鯛鉾」奉賛会“祭連”(15名)


お囃子賛助奉納 泉州堺すずめ組

地車(だんじり)

太鼓台(太鼓中)
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