左から 白さん(中国・内モンゴル) 朴さん(韓国・ソウル) 角山先生 クスリニさん(インドネシア) 林さん(中国・福建省))

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< 目 次 >
第1回セミナー
 茶(CHA)の心と文化
第2回セミナー
 日中茶文化の比較
第3回セミナー
 古今伝授をめぐって
 「茶」の伝搬ルート
第4回セミナー
 世界と堺の茶の文化
 
主催: 公立大学法人 大阪府立大学 現代GP
平成17年度現代的教育ニーズ取得支援プログラム「地域学による地域活性化高度人材養成」講座
お問合せ先:現代GP推進室 電話:072-254-9375

協力: (財)堺都市政策研究所、NPO法人南大阪地域大学コンソーシアム

特別協力: 市民活動団体“堺なんや衆”


大阪府立大学総合教育研究機構棟





 第1回セミナー 平成20年6月14日(土  
                             大阪府立大学 総合教育研究機構棟 1階119教室

   午後2時〜3時

    講演 
堺発信「茶(CHA)の心と文化」
  ⇒受講ノート」こちらから 資料こちら
            堺市教育委員会顧問・和歌山大学名誉教授 経済学博士 角山 榮氏
   午後3時〜4時 
      “チャイ”のおもてなし
「一期一会」席 世界の“茶”文化懇談(講師、大阪府大学留学生)
                                ⇒“チャイ”の「一口メモ」こちらから
                                ⇒参加者「アンケート」結果こちらから
                                  Adobe社 Acrobat Reader無料ダウンロード
 留学生たちの年代では、それぞれ自国の生活文化として“茶”の文化をほとんど意識することがなく、その実情は日本の若者と同様、水や“ドリンク”(清涼飲料水)の世代で、それぞれが自国の伝統文化を背景とした話の内容とはなりませんでした。反面、自国の生活の中における茶を介した文化について思い返す時、参加者が一様に家庭における“おばあちゃん”の存在を挙げて説明していたことは大変印象的でした。
 一方、日本に来てから、日本語を習得するために日本語学校に通う中で、日本の文化の理解の一環として「茶の湯」の文化に触れる機会を持ち、改めて関心を持ち始めていることが分かりました。留学の機会を世界の若者が日本の文化に触れ感受する中で、結果として自国の茶の文化に関心を高め、相互に異文化を理解し敬う心の醸成の動機付けとして活かすことができれば、この「世界の“茶”の文化セミナー」の開催も意義を高めることになると考えました。

 今、国内外を問わず、再び人のつながり(Sociability)を築きなおすべき時にあります。
 身近にある「茶」という本来的な日本の生活文化が、「茶の湯」として「一期一会」(*1)および「和敬清寂」(*2)という世界の平和に通じる哲学としてここ堺の地で大成されたました。この精神を心に留め世界の人々と共有して、日常的な暮らしの中における人間関係の形成のあり方を深く省み、「ふれあい」Communicationと「もてなし」Hospitalityの心をもって「人間関係を形成」Associate再構築するために「茶(CHA)の心」の実践が提唱されました。
  *1:「一期一会
      茶会を一生に一度の出会いの場ととらえ、相手に誠意を尽くす心
  *2:「和敬清寂
      お互いに心を開いて仲良く、敬いあい、心を清らかにして、どんな時にも動じない心


  第2回セミナー 平成20年10月4日(土)      
                              大阪府立大学 総合教育研究機構棟 1階117教室

     午後2時〜3 
      講演 
日本と中国 茶文化の比較         ⇒受講ノート」こちらから
                     首都大学東京 非常勤講師 博士(文学) 
趙 方任氏


     午後3時〜4 
      “中国茶”のおもてなし「一期一会」席  “中国茶”解説、日中“茶”文化生活体験談紹介
                                ⇒“チャイ”の「一口メモ」こちらから
                               ⇒参加者「アンケート」結果こちらから
                                  Adobe社 Acrobat Reader無料ダウンロード

「中国茶」解説  
     暮らしの茶研究家
 谷本陽蔵氏〔(株)つぼ市製茶本舗会長)〕

 中国の茶は明の時代にほぼ完成し今日に至っとります。
 1391年、明の太祖・朱元璋(初代皇帝)は、唐の時代より常用されていた固形茶を製造するには茶農の大変な労働を必要とし、かつ高等技術を要することから、以後このような固形茶を作ることを慎むよう御達示を出しました。以後、若芽を摘んで釜炒りした芽茶(散茶)、つまり葉茶を製造することになり、当時の中国茶の製法に一大変革をもたらしました。
 以来、中国では「釜炒り茶」(炒青緑茶)が主流ですが、日本では、茶畑から摘採された新鮮な茶葉を高温で蒸して茶葉の酸化酵素の活動を停止させる「蒸青緑茶」がほとんどです。
 1504年に陶工・紅令民が明の国(当時の中国)から焼き物文化と同時に自家用のお茶の栽培法を長崎県の嬉野にもたらし、南京釜による「炒葉製茶法」を伝授したことにより中国式の茶の製法がはじまりました。
 嬉野茶が有名になったのは、佐賀の鍋島藩主が嬉野茶のサンプルを配り市場開発にいち早く取り組んだだめでした。1823年オランダ商館医師として赴任したシーボルトが帰国の際にお土産として嬉野茶を持参したことは有名な話です。
 日本における中国直伝の「釜炒り茶」の代表には、嬉野茶(佐賀県、長崎県)と青柳茶(熊本県、宮崎県)があります。嬉野茶は、「唐釜」茶と呼ばれる傾斜釜を用い、青柳は水平釜を用いて茶葉を熱加工し、その後、揉みながら乾燥させて製造します。

「生活体験の中の日本と中国の茶の文化」  
     堺日中友好協会・会員 藤光美芳氏 

 私は上海出身ですが、日本人の夫と出合い結婚して日本、とりわけ堺市に住んで20年になります。
 当初、中国人としての感覚で日本人への見方は、日本人は、日頃、生活習慣として着物を着ていると考えていました。同じように、日本人は、中国人に対して足の長い人であると見ていることを知りました。このように、他国の文化については見方がどうしても偏った先入観に支配されがちであることを知り、お互いにもっと現実を直視して理解しあうことが必要なことだと気がつきました。
 日本では、ドリンクとしてウーロン茶が出回っていますので、ウーロン茶が中国の代表的なお茶と思っておられる方が多く見受けられますが、私の出身地・上海では、ウーロン茶は飲まなくて、日常的には緑茶やジャスミン茶、そして紅茶を飲みます。
 家庭では、日本の場合、お茶碗は特に個人用というのを決めないで共同で使用していますが、中国では、個々に蓋つきのマイ・コップを持っています。コップにそれぞれにお茶の葉を入れ、お湯を注いでお茶の葉が沈むころ合いが飲みごろになります。
 日本の茶道には、当初あまり興味がなかったのですが、子供が生まれて大仙公園を散歩していた時、たまたま、お茶室「伸庵」に行ったのがきっかけとなって関心を持つようになりました。特におもてなしをされる女性の振る舞いに興味がありました。お茶をおよばれした際にその作法、お茶の苦さ、その故にお茶菓子とのなんとも言えない組み合わせの妙というものが次第に分かるようになってきました。
 中国の茶は、どちらかというと個人的な茶の楽しみ方に重点があり、ほかの人がどんな茶を飲んでいるのかはあまり話題になりません。また、最近はやりだした茶芸は見て楽しむ要素があり、どちらかというとお金のかからない癒しの心(ホッとした心)を楽しむことに重点があると思います。
 日本の茶の文化は、もてなしの心に裏付けされた文化であるという点で基本的には中国の文化と異なりますが、その心は時間はかかるかもしれませんが中国人にも受け入れられてゆくものと思います。

「講評」  
    和歌山大学名誉教授
    前堺市博物館長・堺市教育委員会顧問
       角山 榮氏

 今日のセミナー「日本と中国 茶文化の比較」はいずれも内容のあるお話で充実感のある「一期一会」席だったと思います。
 中国と日本では、茶の文化において成り立ちが違い、それぞれに独自の文化として確立されているので相違があるのは当然だと思います。大事なことは、その相違を強調するのではなくて、例えば、客人が来たらお茶をお盆に載せて出すという“もてなしの心”を相互共通の認識の場として共有することだと思います。
 そのことが、この「世界の茶の文化セミナー」の開催意義そのものです。
 皆さんのお話に感銘しました。

「“魅せる堺”お見せします!」  堺市・観光部長 坂本弘毅氏
 堺市では、10月を中心として「茶の湯」の文化に関わりの深い由緒ある文化財の公開をはじめ、多くの文化行事を開催します。ぜひ、お手元にお配りしました資料をご参照いただき、「世界の茶の文化セミナー」を体感していただけたらとご案内します。資料の詳細はこちらからどうぞ!


  江久庵(三国ケ丘)
  電話:072-222-2411
 方違神社正面右2軒目



 第3回セミナー 平成20年11月15日(土) 江久庵(三国ケ丘)
   午後1時〜2時                         
     受付後、千利休ゆかりの茶室「朝雲庵」見学会
  


    午後2時〜3 
    講演 
古今伝授をめぐって                ⇒「受講ノート」はこちらから
                      大阪府立大学人間社会学部 准教授 西田正宏氏
 
堺なんや衆会員 大澤徳平氏所蔵   堺の「茶の湯」の文化の背景 牡丹花肖柏と堺伝授について     総合司会 大阪府立大学
                               和歌山大学名誉教授 角山 栄先生
          教授 山中浩之先
「堺伝授」−中世の文化センターとして機能した“三国ケ丘”  角山 榮
 応仁・文明の乱(1467〜1478年)で荒廃した京都に対して、当時は堺は日本一繁栄した豊かな都市であり、しかも文化的な暮らしが保証されている安全な場所でありました。だから文人たちの多くは戦禍の京都を避けて堺へ移り住みました。人ともに文化もまた堺に移り、堺の庶民の間では、貴族たちのたしなみでありました和歌や連歌が流行するなど、堺は文化の香りの高いまちになっていきました。
 その文人の一人として牡丹花肖柏(1443〜1527年)がいました。肖柏は、1518年北摂(池田)の地が戦乱となったため堺に移り豪商・紅谷喜平の世話になり堺(現在の三国ヶ丘町「紅谷庵」)、つまり本日の第3回セミナーを開催しているこの地に移り住み和歌や連歌の指導を始めました。「堺伝授」の詳細は、西田先生より学問的にお話がありましたので深くは入りませんが、肖柏は東常縁(とうのつねなり)から「古今伝授」を受けた宗祇に学び、古今和歌集の伝授を受けました。それは、西田先生のお話にありましたように「堺伝授」としてこの地でさらに教養が豊かで文芸に親しむ堺の町人に伝えられました。
 千利休(1522〜1591年)により堺で「茶の湯」が大成されましたが、「茶の湯」の文化は飲茶の系譜の中でのみ誕生したのではありません。京の都を除けば、都に相応して広く文化的背景を持っていた“堺衆”がいたからこそでした。肖柏は、その文化的な“まち衆”を育てる役目をこの三国ヶ丘の地で担っていたのですが、残念ながら、現在、堺ではあまりこのことは知られておりません。
 一方、岐阜県郡上市では古今和歌集伝授の祖・東常縁の居城の一帯を「古今伝授の里フィールドミュージアム」として文化遺産を観光に活かしまちづくりを進めております。中世の堺の文化センターとして人材を育て文化を発信したこの「三国ケ丘」が「世界の茶の文化セミナー」の第3回目として位置づけられ論じられたこれを機会に、この地にまつわる伝統文化として新たな時代に活かし、堺の文化発信の地として蘇らせることを提案し期待します。
   午後3時〜4 
       “トルコ・チャイ”のおもてなし
「一期一会」席 “トルコ・チャイ”の解説 兒山万珠代さん
                             ⇒“トルコチャイ”の「一口メモ」こちらから
                               ⇒参加者「アンケート」結果はこちらから
 トルコで最もよく飲まれる飲み物は“チャイ”(紅茶)です。トルコで最初に“チャイ”が飲み始められたのはオスマントルコ帝国時代の1600年代と言われています。1888年に日本から“茶”の種を持ち込みブルサの町で育て始めたのですがあまり適応しなかったようです。現在はトルコのお茶のほとんどが黒海地方、特にリゼ周辺で栽培されています。
 現在トルコの紅茶生産量は世界で5番目と言われています。黒海地方は、温暖な気候や降水量の多さ、そして肥えた土は紅茶作りに大変適した環境です。農薬も添加物も使用せず、カフェインも他の国の紅茶に比べ大変少ないことから、トルコの紅茶は大変健康的なものと言われています。一般に最も美味しいトルコ産の紅茶はチャイクル(Caykur)と言われています。また、地中海沿岸の街アンタリヤで産するベルガモットの葉が入った香り高い紅茶も人気があります。
 トルコで飲まれるチャイは他の国々とは少し異なっています。ポットは伝統的にサモワールと呼ばれるものがあります。最近では、チャイダンルックと呼ばれる家庭用の2段重ねのステンレスポットが一般的です。グラスはチューリップ型の小さなガラス製またはクリスタル製のもので、ソーサーも付いています。グラス用の小さなスプーンと約1cm角の角砂糖が用いられます。

 

    堺市博物館
 仁徳陵正面大仙公園内


    お茶室「伸庵」
大仙公園内堺市博物館前


 「伸庵」お迎え南蛮人形



 第4回セミナー 平成21年1月17日(土)
   お茶のおもてなし「一期一会」席  正午〜2時 伸庵(大仙公園)にて
     小川流による煎茶“のおもてなし”
      小川流煎茶六代目家元・小川後楽先生、野口久楽先生および社中の皆さん

 
                                    お軸 梁川紅蘭作

お軸 幕末の勤皇家・梁川星巌作
 小川流煎茶には独自の伝統を誇る本格手前を中心に、日常にも生かせる略手前など約三十種ほどあり、楽しみながらしだいに奥義を極められるようになっています。基本的には煎茶、玉露、番茶といったそれぞれの茶葉に応じた手前があり、これに季節や場所、用いる茶具などでさまざまなバリエーションが加わっていきます。
 また、理にかなった美しい手順が引きだす、甘みと渋みのバランスの取れた茶味が特色です。これらは単に趣味的な世界を超えて、毎日の暮らしに生かされることでしょう。小川流煎茶を通じて毎日のお茶がこんなに美味しいものだったかと、改めて煎茶の良さを再発見していただければ幸いです。

 流祖・小川可進は茶の真味にもとづき、「茶は渇をとむるに非ず、飲むに非ず、喫するなり」と教えております。本日のおもてなしでは、一煎目は「香り」を、二煎は「色」を、三煎目は「賞味」をお楽しみいただきます。
 
御茶菓子 上用饅頭「初詣」と干菓子「千代結び」  一煎目のお茶

  パネル講演会 「世界と堺の茶の文化」          ⇒「受講ノート」こちらから
   午後2時30分〜4時30分 堺市博物館 視聴覚室  参加者「アンケート」結果はこちらから
           堺市博物館への入館料200円(65歳以上無料、要証明書)は各自ご負担お願いします。

        パネラー:
        小川後楽氏
  煎茶 小川流家元 京都造形芸術大学教授
        佐藤よし子氏 ザ・クイーンズ・フィニシング・スクール主宰
        角山 榮氏   前堺市博物館長・堺市教育委員会顧問・和歌山大学名誉教授
        西田正宏氏  大阪府立大学人間社会学部 准教授

       司会進行:
        山中浩之氏  大阪府立大学人間社会学部 教授
「煎茶」の文化について 小川流煎茶六代目家元・京都造形芸術大学教授  小川後楽
 小川流煎茶は今からおよそ二百年前、京都の小川可進(1786〜1855)によって始められました。名は弘宜、通称可進、後楽と号しました。荻野台州に医を学んで御典医をつとめましたが、若いころから煎茶への関心が強く、五十歳で医業を廃して煎茶家に転じました。
 わが国での喫茶の歴史は古く、煎茶は文人墨客の余技として古くから親しまれてきましたが、流祖小川可進は茶の真味に基づき「茶は渇を止むるに非ず、喫するなり」と主張し、もと医者であった持ち味を生かして、衛生的な合理的な独自の煎茶法をあみ出しました。
 本日は与えられた時間に応じて二つのことに的を絞ります。
 一つは、江戸時代の末期には煎茶が広くもう一つの茶道として親しまれていたということです。
 江戸末期には、煎茶は盛んになり、とりわけ勤皇派の志士たちは煎茶を愛飲していたことはよく知られています。佐幕派が茶の湯(抹茶)をたしなんだのと対照的でした。幕末から近代にかけて活躍した文人の一人として富岡鉄斎(1837〜1918年)がいます。鉄斎は、当初師事した人々や、交友仲間に勤皇派が多かったため勤皇思想に傾きましたが、幼少のころより耳を患っていたので志士を諦め、文人として身を立てました。
 江戸時代中期以降文人の活躍が目に付くようになりますが、彼らの多くはまた一方で煎茶を盛んに行っていました。その先頭に立ったのが売茶翁で、伊藤若冲や池大雅、上田秋成といった人達も売茶翁の強い影響を受けています。当時売茶翁の肖像画も描かれましたが、煎茶をたしなみ売茶翁を崇めていた富岡鉄斎も、維新の翌年という大切な時代の局面で、売茶翁の肖像画を描いております。今日皆様をお迎えした煎茶席(お茶室「伸庵」)には、鉄斎とも交遊のあった、幕末の勤皇家梁川星巌・紅蘭夫妻の文人画を、おもてなしのしつらえとして二幅かけてみました。
 もう一つの話は、煎茶の文字が使われだした歴史、その誕生の背景についてのことです。
 唐代の中国では、陸羽(リクウ:733〜804年)が『茶経』を著わして以来、茶のたしなみが生活の中に広がっていきました。しかし、それは文雅を伴う文人趣味の色彩の濃いものでした。陸羽の後、弱者にも温かい目を向けた社会派の詩人盧仝(ロドウ:775〜835年)によって、文雅な茶は一層その精神性をたかめ、「清風」に象徴される脱俗隠遁の生活が、多くの文人達の共感を集めます。
 日本では、平安時代に空海など遣唐僧によって茶が持ち帰られ嵯峨天皇に献上されて飲まれたことは知られていますが、それは、今に言う日常茶飯事のお茶ではなく、上層階級が風雅・文雅なものとして楽しみ、また一方薬事的なものとして飲む高貴なお茶でした。中世に至って「茶の湯」の基本が出来上がり、近世にわが国の煎茶の世界へとつながっていきますが、日本における実質的な煎茶道の開祖とも言うべき人物は、江戸時代初期に黄檗宗「万福寺」を宇治に開いた隠元禅師とされています。
 江戸後期になると世直しに獅子奮迅する志士たちに盧仝の精神が受け入れられ、初めに述べたように煎茶が一層普及します。煎茶が、今日のようにさらに日常的なものになったのは、第一次世界大戦(1914〜1918年)以後、茶の輸出が減少してから庶民の身近に出回ってきてからです。しかし一方、煎じもの(番茶)と混同されるようになり、本来の「煎茶」の世界とは遠いものになったような気もします。


「紅茶」の文化について ザ・クイーンズ・フィニシング・スクール主宰 佐藤よし子
 17世紀、中国から輸入されたお茶は、日本からもたらされた「もてなし」や「ふれあい」の心と合わされてヴィクトリア王朝時代のイギリスのライフスタイルを大きく変えました。上流階級では、家庭における女性のティー(tea)が中心となり、家族が団欒して食べる食事としてブレック・ファーストと言う豪華な食事が成立してきました。さらに、午後には親しい友人たちとともにティーを囲んで楽しむアフターヌーンティーなどteaは家庭における女性の飲み物として、tea partyとして定着し人間関係の形成に大きな役割を果たしました。
 ブレックファストとは一晩の断食をやぶるという意味。たっぷりの朝食と濃くしっかりした味の紅茶を楽しみます。アフタヌーンティは、英国人が中国や日本という東洋趣味にあこがれて飲み始めた一杯の紅茶から生まれたティーパーティでした。アフタヌーンティは、完璧に美しく仕上げられた家にお客さまを招くことから、お茶、お菓子、掃除や食器についてなど家事の発表の場であるとも言われています。
 アフタヌーンティーは、さながらエチケットとマナーの競演の場で、語ることが求められている場です。
中・近世歌学研究者として関心をもったこと  大阪府立大学 准教授 西田正宏
 日本文化の根底には和歌の文化、つまり「歌の道」があります。例えば、私が専門としているうちの一つに古今和歌集があります。古今和歌集の解釈を中心に歌学や関連分のいろいろな学説を口伝、切り紙、抄物(解説・註釈を旨とする書物)によって師から弟子へ秘説相称の形で伝授するシステムを「古今伝授」と称しております。
例えば、東常緑(とうのよりつね)は、藤原定家より受けた御子左の享受とともに正徹など中世を代表する歌人に学び、切り紙による伝授方法をとりいれ連歌師の宗祇に伝授しました。晩年、堺の豪商・紅屋喜平の別荘(現在の三国ヶ丘町「紅谷庵」)に移り住んだ牡丹花肖柏は、宗祇について歌を究め、古今集の伝授を受けました。後年、地下歌人(じげかじん)にこれを伝え「堺伝授」と言われています。

 「煎茶」および「紅茶」の世界で伝承のシステムについてどのようであるのかお伺うします。

「煎茶」の流派「伝書」と隠逸」について 小川後楽    角山 榮
 伝書」というものはありますが、その当初はあくまで弟子による口述筆記であり、必ずしもすべてが記述されているわけではありません。例えば、「秘中の秘」とか奥儀に関することは口伝として伝えられ、いわゆる免許皆伝は、口伝も含めて伝授された時のことを言います。
 また、ご指摘のように濾仝(ロドウ)が愛した「隠逸」、「隠棲」の生活は、「茶の湯」においてロドリゲスが指摘したように「市中の山居」として表現され、江戸末期の文人たちの文化的なあこがれの世界として「煎茶道」のモデルにもなりました。
 これは、キリスト教徒のように一神教としてオールマイティーの信仰を持たない仏教徒の日本人にとっては耐えられない心から逃れるための身の置き所として選ばれた環境であったと考えられます。

「紅茶」の社会のマナーやエチケットの伝承について 佐藤よし子
 イギリスでマナーやエチケットが問われるのは、主として上流階級の場合の話です。上流階級と下流会級ではマナーやエチケットは歴然と区別されております。従って、日本の茶の世界でいう「流派」というよりは、あくまで社会的な階級を言っております。イギリス人はそれぞれに自分が置かれた階級に誇りを持って生きており、マナーの違いから階級の違いを察しても階級の違った人のマナーを指摘することはありません。
 階級別の伝承は、それぞれの階級の家庭や社交の場を通して伝承され、徹底されてきました。例えば、大事なお客様に銀器や象牙の器具を用いますが、これは、そのような高雅な茶器具を持っているという誇示というよりは、銀器や象牙の器具が毒に対して敏感に反応することを利用して、おもてなしする客に対して毒を盛ってはいないことを表すことを目的としております。この考え方は、まさしく、客の前で手前を公開して行う日本の「茶の湯」の精神に通じるものがあり、日本の「茶の湯」の文化へのあこがれの心を見ることが出来ます。


総 括  和歌山大学名誉教授・前堺市博物館長・堺市教育委員会顧問 角山 榮
 16〜17世紀、世界の銀の1/3 を産出していた日本、その銀が集積する世界の貿易都市・堺へポルトガル人宣教師がやってきました。その後もオランダ人やイギリス人など西洋人がやって来て「茶の湯」を発見し、茶の文化の魅力に取りつかれました。
 当時、ヨーロッパでは茶が栽培されていなかったので、一種の茶に対するあこがれがあったのでしょう。
 とりわけ、ポルトガル人・ロドリゲス(1561〜1633年:イエズス会士、日本語の通訳)は、『日本教会史』原書全3巻 邦訳2巻(岩波「大航海時代叢書」)を著し、群雄割拠の不信感漂う世相にあって時間的に設えて行うことのできなかった宴席を、これまで最後に出されていた「茶」を空間(=茶室)的に独立させて“もてなし”の様式として凝縮・体系化し、「茶の湯」の文化として大成した日本人(堺商人)にあこがれを持っていました。
 その「茶の湯」の中に日本人の社交性を見出しヨーロッパに紹介したことは注目すべき出来事であり、その後、ヨーロッパに大きな影響をもたらすことになりました。“ふれあい”の機会を“もてなし”の心によって大事に扱い人間関係を形成してゆくという論理に倫理と美意識を重ね合わせて構築した日本人の哲学として伝えました。
 1609年、平戸から出帆したオランダ船は、日本茶を積み、途中バンテンで積んだ中国茶と共に1610年アムステルダムに着きました。1662年には、ポルトガルの王妃キャサリンは、イギリス国王チャールズ2世のもとに嫁いだ際に自分の生活文化として“茶”を持参しました。キャサリン王妃は、貿易先進国であるポルトガルでの茶の文化の生活習慣をイギリスに持ち込み、貴族や上流社会の間で豊かさの象徴として広がっていきました。19世紀には、中国から輸入された紅茶は、日本からもたらされた“ふれあい”や“もてなし”の精神と合わせてヴィクトリア王朝時代には、ブレック・ファーストやアフタヌーン・ティーとなって具体化し、マナーやエチケット競演の場としてとしてライフスタイルを大きく変えました。
 “ふれあい”と“もてなし”の心で“人間関係の形成”を図る堺の「茶の湯」の心は世界の茶の文化の中で生きており、堺の市民として認識を高め誇りとすべきだと思います。

質疑応答
 「北海道洞爺湖サミット」(2008年7月7日〜9日)後の報道によりますと、「サミット」会場で日本の首相夫人が自ら抹茶による“おもてなし”をされたそうですが、参加された世界のファースト・レディーの皆さんは、お茶を召し上がって必ずしも満足しておられなかったとありました。「茶の湯」の文化発祥の地の市民としてはちょっとさみしい気持ちがしました。
 さらに国際化が進む世の中にあって、今後欧米をはじめ外国のお客様を日本の「茶の文化」でおもてなしをする時に如何したものかヒントをお願いできればと思います。
 また、本日は紅茶の文化についてお話を伺いました。紅茶は緑茶を醗酵したものとお聞ききしておりますが、日本や中国の緑茶の文化が受け入れられないということのお話であったのでしょうか。

お 答  ザ・クイーンズ・フィニシング・スクール主宰 佐藤よし子
 本日、セミナーに先だっておもてなしをいただいた小川流の煎茶の香りやお味を体感したものとして言えば、煎茶のおもてなしであれば問題はなかったのかもしれません。それよりも、イギリスの紅茶の社会で求められているように自分の茶の文化を語れるようにしておくことが大事で、単に賞味としてのお茶としてではなく文化としてのお茶として位置づけを十分に説明してご理解を得るように対応が求められていると考えた方が良いように思います。
 中国でも、美味しさを求めるなかで時代とともに茶の造り方や形や飲み方が変わったように、美味しさを求めるなかで醗酵という製造技術が確立され、地域文化として階級文化として紅茶文化が創出されたのであり緑茶の文化が受け入れられなかったというわけではありません。
 一言で申しますと、「茶の文化」は世界的に広がりを持つ広くて深みのある生活文化ということでしょう
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