堺・まち文化

「酒のうんちく」 

            

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中井正弘;「堺泉州」、64頁、創刊号(堺泉州出版会、1996年)



「読書メモ」
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 堺の酒造業の始まりは、中世以来とも言われている(「蔭涼軒目録」1493年)。
 江戸の初めには堺の商人が菱垣廻船を考案して酒を江戸へ運び、当時、京都、大坂、奈良、堺が全国的な酒の産地として聞えていた。
 その頃の醸造石高は、53,000石/年(9,500kl)で、1665年の記録によれば、地元需要だけでなく、長崎を主として、松前(北海道)、中国、四国、対馬など全国へ出荷していた。
 1794年の資料によれば、江戸へは、大坂経由の菱垣廻船で約12,000樽を輸送しているが、灘(約20万樽)、伊丹(約7万樽)には及んでいない。それでも、堺は、“江戸積摂泉12郷”の一つに数えられ、摂津の灘、西宮、伊丹、大坂などと江戸積みに関する統制を図っていた。
 堺の酒造業の最盛期は明治時代で、大正3年までの約50年近く堺の製造業の生産金額順位の1位を占め、以下、段通、醤油、レンガ、菜種絞油、刃物、線香、ハカリ、木綿織物等の産業が栄えていた。
 堺の有名な酒造家・鳥井駒吉は、それまでの樽詰からビン詰出荷の発案によって、消費者に重宝がられ、清酒の普及に大改革をなし、日本酒の根強い嗜好を維持させてただけでなく、国内はもとより、朝鮮、中国、台湾、アメリカなど海外へも輸出した。金露の看板
 300年以上も続いた堺の酒造りは、明治以降、近代工業がいち早く勃興してくると、地下水の汲み上げが多くなり、限られた水源が枯渇あるいは水質の低下をきたした。そのために、灘から“宮水”を購入した。
 流通、醸造水、酒米、杜氏、拡張用地など流通コストと生産要素の点から、堺では、経済原則に即しきれず、いずれにおいても有利な“灘”への生産拠点の移動をせざるを得なくなり、堺の“酒造り”が衰退の道をたどり、1970年頃には、堺市内から完全に酒蔵は姿を消すこととなった。         
 1997年(平成9年)1月、1806年(文化3年)創業以来堺のブランドとして親しまれた銘酒“金露”(金露酒造株式会社)も廃業に追い込まれ、ついに、堺の地から造り酒のブランドは消えた。


さらに詳細は、「読書メモ」をご覧ください。
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