中国・東北歴史紀行 2

 

 トップページコンテンツ中国・東北歴史紀行.2.3.巨大古墳シンポジウム>堺の歴史と文化

<引用資料>
  1.関 英夫;『堺の歴史』(山川出版社、1975年)
  2.角山 榮;『堺−海の都市文明』(PHP研究所、2000年)
  3.宮崎正勝;『早わかり世界史』、163頁(日本実業出版社、2002年)
  4.劉世昭;『人民中国』37頁(2007.3.
  5.ピーター・へスラー;『National Geographic 万里の長城』、9、〔1〕54頁
                                  (日経ナショナル・ジオグラフィック社、2003年)

  6.資料:杉本憲司先生(仏教大学文学部教授)、作成:株式会社国際交流サービス;
   『杉本憲司先生と行く「東北古代史  紀行−高句麗の遺跡を訪ねて7日間」資料集』

  7.フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中国・東北歴史紀行

< 目次 >
プロローグ

T.高句麗前期遺跡

U.清朝建国の歴史
 1)中世から近世の変遷
 2)清朝建国(ホトアラ城)
 3)瀋陽遷都(故宮)
 4)清朝関外三陵

V.遼東歴史遺産

エピローグ

感謝


2.世界遺産 清朝(瀋陽)故宮
1)中世から近世への変遷
  我が“まち”堺の歴史的文は、古代より時代の流れの中で以下のように特徴付けられる。
   第1期:紀元前4世紀〜2世紀
    四ツ池遺跡を中心として、新石器、縄文時代から続いた集落における生活文化
   第2期:5〜10世紀
    巨大古墳群が築造され、須恵器が大量生産された渡来人との共生の文化
   第3期:1469年(遣明船初入港)〜1615年(大坂夏の陣)
    町人による自治・自由都市、世界的商業ブルジョアジー、「茶の湯」および南蛮の先進文化
   第4期:1868年〜1900年前期
    「堺県」県庁所在地、河口慧海(1866−1945)、与謝野晶子(1878〜1942年)文化人材輩出

 とりわけ、第3期(中世〜近世)は世界に位置づけられた商業都市「堺」として脚光を浴び、日本国内においては、千利休により創始された「茶の湯」の文化を通して時の為政者(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の身近にあり、文化的、経済的にもっとも華やかな時代であった。
 特に、室町時代、応仁・文明の乱(1467〜1478年)をキッカケとして開けた対明貿易は、堺に大きな繁栄をもたらしたが、1547年、明国の鎖国政策(明朝海禁政策)により遣明船貿易は途絶えた。
 1592年、天下を統一した豊臣秀吉が明国攻略の手初めとして李氏朝鮮に大軍を派遣したことへの対応や、国内的には、東北地方から台頭してきた女真族(満州族)へ対抗のため進めた万里の長城の大修復と兵の配備の故に手薄となった首都・北京を簡単に突破され1644年に滅亡した。
 

               引用:宮崎正勝;『早わかり世界史』、163頁(日本実業出版社、2002年)

引用:ピーター・へスラー;『National Geographic 万里の長城』、9、〔1〕54頁(日経ナショナル・ジオグラフィック社、2003年)

虎山長城 (遼寧省丹東)

 宋,元(1271年に、フビライ・ハーンがモンゴル帝
国の国号を大元と改めた)の時代は、北方民族が
中国北部を占領していたので、長城は何の意味も
持たなかった。元を中国から追い払った明は、こと
のほか北辺警備を強化し、長城の大改修をおこな
い、九つ(
八達嶺慕田峪司馬台金山嶺居庸
黄崖関虎山山海関嘉峪関
)の基地を建設
し多くの兵隊を配備した。

ピーター・へスラー;『National Geographic 万里の長城』、
9、〔1〕54頁(日経ナショナル・ジオグラフィック社、2003年)
2)清朝建国−ホトアラ城 (赫図阿拉城:「平らな丘の城」の意・遼寧省新賓満族自治県)
 1603年、ヌルハチ(太祖)が明の支配下で満州に住む女真族の統一を進め、1616年正月にホトアラ城で「後金」を建国した。その後、五行説において明が「火徳」を表すのに対して「水徳」を表す「シ」に中国の東北部を表す「青」を組み合わせて「清」(秦⇒「ch'ing」⇒「CHINA」)と国名を制定した。

清朝建国の地 ホトアラ城 (遼寧省新賓満族自治県)
 清の皇帝の始祖・愛新覚羅氏一族は、部族の叛乱に遭い一族郎党皆殺しに遭った。一人だけ残った男の子が逃げ出したが、すぐに追っ手が迫り、もはやこれまでと力尽きてしまった時、空から一群のカラスが飛んできて追っ手をひきつけ男の子が命拾いをした。こうして愛新覚羅氏の子孫は生きながらえ繁栄することが出来た。
 命の恩人であるカラスに感謝の気持ちをこめて愛新覚羅氏の子孫はカラスを神鳥と崇め、家の前に索倫竿を立て、神鳥を飼い、天神を祭った。この風習は、清朝の皇室と民間の満州族の間で広く行われた。
 
満族の食用肉は、牛、羊、ヤギが主で、豚や犬は食べない。節句の季節のためチマキが出された。
3)瀋陽遷都(故宮)
 清の太祖(第1代)ヌルハチ(1559〜1626年)と太宗(第2代)ホンタイジ(1592〜1643年)は、元、明朝の旧城を基礎として1624年瀋陽に宮殿を建立し、1636年完成して首都を移した。1644年、世祖(第3代)・順治帝(1638〜1661年)が北京に遷都した後には、清王朝の副都宮殿となった。
 中国に現存する帝王の大型宮殿の建築は、北京の故宮と遼寧省の瀋陽故宮のみである。
 
                                               

劉世昭;『人民中国』37頁(2007.3.)
瀋陽故宮平面図
 北京故宮と異なり、山岳地帯で半農半猟の女真族の宗教
(シャーマニズム)・文化を反映した様式。特に、東路(右側)
・太政殿(八角形)は、モンゴル族のテント・ハウス(ゲル)
の文化を導入。太政殿を中心に二王・八旗亭の兵制配置。

八旗(黄、白、紅、藍×縁有無)の兵制
狩猟の体制を発展させた軍事組織。政治、経済、社会に適用
太政殿 満州、漢、チベット、蒙古等諸民族文化を融合した建築。1644年第3代順治帝が出兵令を出し長城・山海関を攻め中国統一

左から、左翼王亭縁取り黄旗亭、正白旗亭、縁取り白旗亭

左翼右から、縁取り藍旗亭、縁取り白旗亭、正白旗亭、縁取り黄旗亭
崇政殿 第2代太宗ホンタイジが政務を行った場所。1626年に建造が始り16735年に落成した
崇政殿 屋根の棟木、破風、縁取りに五彩瑠璃の浮き彫りがある 鳳凰楼 清寧殿(ホンタイジと皇后の寝室)への門
清寧殿 北京故宮と違い生活区が高台にあるのは、長い間戦争状態にあった満州族等草原民族の防御機能の現れ オンドル付き
4)清の関外(山海関の外)三陵 (遼寧省撫順市新賓満州族自治県)
 清代の皇帝陵は、東陵(河北省遵化市)と西陵(河北省易県)のほかに遼寧省瀋陽市の福陵(太祖ヌルハチ)、昭陵(太宗ホンタイジ)および永陵(ヌルハチの祖先)がある。これら三陵は、別名「天下の雄関」と呼ばれ、万里の長城の西端にある山海関の外にあるため“関外(山海関の外)三陵”と略称されている。
 ヌルハチやホンタイジは、今の満州族(女真族)の出身で、長白山(吉林省延辺朝鮮族自治州安図県)を民族の発祥地とみなし瀋陽の北東郊外にある天柱山に長白山の脈の末端が来ているので、ホンタイジはこの地を父・ヌルハチの陵墓(福陵)に選定した。
 ヌルハチの祖先を祭る永陵には、4人の皇帝(後追い称号)と皇后が埋葬され、その姿は、ただ土を積んだだけのもので、清朝の皇帝の中でも最も簡素な陵墓である。
 清朝歴代の皇帝は、墓参に訪れ、さらに出身地を巡る(東巡)際には瀋陽故宮に必ず立ち寄った。

四祖碑亭

敬運殿 4祖の位牌を祭る

神木「楡」の木を配している

左から、漢字    満州文字  モンゴル文字

犬型龍身「座龍」
 長い間草原で暮らしていた満州族は、犬を崇拝しており、その習俗を反映して「碑亭」の柱角石とアーチ門の柱の基礎に「座龍」の浮き彫りを施している。龍は、頭を上げ、胸を張って尾と三本の足を地につけて犬の「お座り」の形で座り、満州族の伝統的な姿を表している。満州文字は、モンゴル文字を模して作られた。
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