中国「長江文明」 紀行記

                 2006年3月3日(金)〜3月10日(金)

  関空⇒上海
(市内)⇒武漢(黄鶴楼、帰元寺)⇒荊州(古城)⇒宜昌⇒三峡ダム
       ↑
空路 1,124km↑       バス 706km          ↑⇒⇒
   西陵峡
(神農峡)⇒巫峡⇒瞿塘峡⇒(白帝城)(鬼ヶ城)重慶(渣滓洞)⇒上海⇒関空
       維多利亜号(ビクトリア号) 5星級 5,000トン   648km        ⇒⇒↑  空路 2,478km


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    引用資料:
       ・田中忠仁;「芳隣だより」2006年2月号(平成18年2月24日発行)
       ・増田義和;『わがまま歩きツアーズ10「中国」』(実業の日本社、2005年)
       ・池上正治;「大長江−その源流から河口まで6400キロの旅」
                        東亜、1(2005年4月)〜最終回(2006年3月)〔(財)霞山会〕

      ・宜昌国旅集団ほか編;『長江三峡』(中国旅遊出版社、1995年)
       ・李金龍主編;『雄大な三峡ダムプロジェクト』(黄河水利出版社、2005年)





「長江文明」 目次
1.プロローグ
2.都市文明、文化・・・
3.長江源流、四川省・・・
4.三峡ダムプロジェクト
5.「三峡」見聞遊覧
6.上海「現代中国」
7.宗教について
8.エピローグ


報道
 三峡ダム完成
  日本経済新聞
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1.プロローグ
 2005年10月、中国徐福会と連雲港市カン楡県人民政府のご招待を受けて第5回「徐福祭」に参加した時、開会の挨拶の中で、連雲港市徐福会孫栄章会長が、「徐福は、中国文明が河川文明から海洋文明へ転換してゆくきっかけをつくった人」と評されたことが耳に残っていた。
 中国では、地理、歴史、文化を語る時、河川が動脈としてその脈絡を形成し伝えている。とりわけ、「江河」、つまり、中国第一の長江(6,400km)と第2の黄河(5,500km)は、その発祥をユーラシア大陸文明に伍して位置づけられる中国文明の基幹をなしてきたといわれている。
 また、長江の流域は、陳寿(233年〜297年)著『三国志』にも縁があり、古跡が知られているところでもある。
 そして、近代から現代にかけて、戦略的国家大プロジェクトとして「三峡ダム」の建設が世界の注目を集めているところでもある。
  

 旅の道連れは、当初、大阪大学経済学部同窓会の面々ということであったが、諸般の事情が重なって、その友人・知人計12人の一行となった。
 企画・団長・ガイドは、田中忠仁氏(大阪大学経済学部昭和34年卒業)が精力的に勤めていただき、道中、在職中(元三菱商事・中国担当部長)のキャリアーを活かしてホスピタリティーにお世話をいただいた。

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2.中国の都市文明、文化・思想、民族大移動・・・
 日本列島で縄文土器が作られ始めたころ、ユーラシア大陸の東西では、西のメソポタミア、エジプト文明、中央のインダス文明、そして東の黄河文明など都市文明が起こっていた。
 黄河中流域の半坡遺跡(新石器時代)から彩色された土器が出土し、集落が営まれ、漁業が行われていたことが判っている。黄河流域から起こった都市文明は長江(揚子江)流域を含めた中国文明へと発展していった。
 紀元前17世紀には、殷(商)王朝が興った。殷と同時期に長江上流の四川盆地に三星堆(紀元前1300年ころの古代青銅器文明遺跡)が存在した。
 春秋(紀元前770年〜403年)・戦国(紀元前403年〜221年)時代には、それまでの氏族社会の崩壊による価値観の変化から「諸子百家」と呼ばれる思想家が輩出した。
 儒教の祖・孔子(紀元前406年〜479年)は、家族的な人間関係を基本とする「仁」を説き、墨家の祖・墨子は、儒家の家族主義を差別的と批判して人を社会的人間であると唱えた。老子と続く荘子(紀元前369年〜286年)は、「無為自然」を説いて、道家の祖となる。「法による統治」を主張した韓非子は、法家となり秦の始皇帝(紀元前259年〜210年)に影響を与えた。
 日本に水田稲作がもたらされた弥生時代のころ、中国では秦による統一がなされ(秦時代:紀元前221年〜206年)、最初の帝国の王として自ら始皇帝と名乗り膨大な権力を手中に収めたことから、万里の長城や自らの巨大な陵墓を守るため兵馬俑坑を建造した。
 反乱で、秦が滅亡すると、項羽と劉邦が覇権を争い、勝利した劉邦が漢の初代皇帝高祖となった。
 以後、400年にわたって漢帝国は続き、西側では紀元前27年にローマ帝国が成立した。
 2世紀後半になると相次ぐ反乱によって漢帝国は崩壊し、覇権争いは、魏(220年〜265年)、呉(222年〜280年)、蜀(221年〜263年)の3国に収斂され、長江流域に故事を多く残す三国時代を迎えた。

  
         増田義和;『わがまま歩きツアーズ10「中国」』、178頁(実業の日本社、2005年)
荊州古城(208年、孫権と劉備連合軍が曹操水軍に大勝した赤壁の戦い後、劉備が支配し、関羽が守った)
3.「長江」(6,400km)源流、四川省、重慶
 長江の源流は、青海省通天河の上流のトト(沱沱)河を長江の正源とされており、現実は砂利だらけの地で、長江という名が地図上に登場するのは重慶市あたりからだそうだ。
 ちなみに、四川省は、岷江(みんこう)、沱江(だこう)、嘉陵江(かりょうこう)、烏江(うこう)の四つの川が流れる省の意味で、青海を源とする金沙江と岷江とが合流する宜賓から下流が長江といわれてる。
 重慶は、歴史的には、「巴(は)」、「渝(ゆ)」と呼ばれ、1186年何層の光宗により慶びごとが重なったことから「重慶」と命名され、1929年に重慶市となった。
 1937年には、蒋介石が率いる国民政府が移され臨時首都となり、毛沢東と蒋介石の重慶会談が行われ、第二次大戦後、国民党と共産党の内戦で国民党政府のの特務基地となった。
 1994年には、三峡ダムの建設が始り、「三峡プロジェクト」の拠点都市となり、1997年には、北京、上海、天津についで、重慶(巴)が第4の直轄市として昇格独立し、四川省は蜀だけとなった。

 夏は暑く、また、霧が多い街としても有名。
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4.「三峡ダム」プロジェクト
 

 ・沿革:
   ・1919年:孫文 三峡ダム建設プロジェクト提唱(「建国方策」)
    (戦争とにより進展せず白紙化)
   ・1950年:中国共産党政府長江水利委員会設置、予備調査開始
   ・1963年:着工方針発表、長江流域企画弁公室(長弁)
     (中ソ対立・文化大革命・ダム建設反対論当により中断・進展せず)
   ・1992年:全人代、三峡ダム着工を採択
     (出席者2633名、賛成1767名、反対177名、棄権664名、無投票25名)
   ・1993年:長江三峡工程開発総公司設立、第一期工事開始(準備工事開始)
   ・1997年:第一期工事完成、長江本流を堰止め、第二期工事開始
   ・2001年:移民(約110万人)終了
   ・2003年:第二期工事完成、一部湛水一部発電開始、第三期工事開始
   ・2004年:上海のほか広東にも送電開始
   ・2009年 完成予定
     (テロ対策のため上空を航空禁止区域に設定)
 ・ダム仕様:
   ・ダムの形式:重力式コンクリートダム
   ・堤体の高さ:185m(通常水位:175m)
   ・堤体の長さ:2,309m
 ・ダム湖:
   ・貯水容量:393億m3〔日本最大奥只見ダム(福島県・新潟県):6億m3〕
 ・発電所仕様:
   ・年間発電量:847億kwh〔日本最大奥只見ダム:56万kw〕
5.「三峡」見聞遊覧
 「三峡」とは、瞿塘峡(くとうきょう)、巫峡(ふきょう)、西陵峡(せいりょうきょう)の三つの総称。

  
              宜昌国旅集団ほか編;『長江三峡』、88頁(中国旅遊出版社、1995年)

 今回の企画は、諸般の事情で、日程が先に設定され、それに合わせて可能な三峡ツアーとなったので、下りが予約できず、やむなく、上りコースへの乗船となった。
 従って、当初の予定は以下のように変更された。
   ・当初予定: 上海⇒(空路)⇒重慶⇒「三峡下り」⇒宜昌
   ・変更後:  上海(2泊)⇒(空路)⇒武漢⇒(バス)⇒荊州古城⇒宜昌(船内1泊)⇒「三峡上り」⇒重慶
 宜昌から乗船した船は、「維多利亜号」(5星級)で、乗船客は、ドイツ人60人(3階)、イギリス人30人(2階)、日本人12人(2階)、その他中国人(1階)で、数の上では中国人が最も多かったが、船内および甲板の状況は国際色豊であった。
 関空を発って4日目の朝6時30分、三峡上りの出発地「宜昌」を出帆し、間もなく、三峡ダムの下に到着、下船して堰堤周りの公園を見学した。
 三峡ダムの通過は二通りあって、3,000トン以下の船はエレベーター方式(堰堤の右端)で上下し、それ以上の船は5段式水路(右側水路、上り下り2本)を段階的に水門を通過しながら上下する方式になっている。 水門方式通過の場合は、1回当たり約30分づつかかり、約2時間半をかけて通過した。水門には、一回当たり6隻ぐらい同時に入っていた。
神農峡(中型船“小三峡”1号に乗換、長江支流に入る)
側壁には、古桟道が残り、懸棺(死者の棺桶を絶壁にかける)という奇習が見える
白帝城船着場(増水のため島になった) 白帝城(劉備が諸葛孔明に後事を託して亡くなる)
埋没地帯住民140万人(2006年10月中国国務院発表)移住新市街地が沿岸随所にあり、雇用対策が課題
宜昌出帆夜 船長(乗船歓迎挨拶)招待カクテルパーティー
乗船従業員によるショータイム(夕食後)、漢方医による太極拳指導(朝、コーヒータイム)
 行きは真ん中の橋を渡り、滑らずにわたりきれば地獄を通過する。帰りは、自分の幸せをお金に求めるか平和に求めるかにより右と左の道を選択する。  中国では、死後にも魂が存在し、供養してもらえないとこの世の人間に危害を加える。その判定をするのが閻魔大王であるといわれている
                          重慶港着 下船
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6.上海に「現代中国」を見る
 その昔、今の上海は海中にあり、呉(江蘇)、越(浙江)が激しく争った約4000年前、上海の西部がようやく陸地になったとされる。
 上海の名が歴史上に現れるのは、北宋時代の1074年に上海鎮が設けられてからで、南宋時代には、臨安(杭州)に都が置かれたため、上海鎮との水運、商業が栄えた。元時代の1292年には上海県となり、孔子廟などが建てられ、貿易や船舶などを取り締まる役所(市船司)が置かれ、港町として栄えるきっかけとなった。
 さらに、地場産業として紡績が勃興し、生産と流通とが一体となって17世紀末には人口20万人を擁する港湾都市として対外的にも注目されるようになった。
 1842年、「世界男制覇」を目指したイギリスにアヘン戦争(1840年〜)を仕掛けられた最後の皇帝・清朝は戦争に敗れ、1842年英国と「南京条約」を結び、上海、広州、アモイ、福州、寧波など中国等海岸の港町を通商港として開港させられた。1845年には、イギリス租界が設けられ、その後、アメリカやフランス租界が造られ、その一部に日本人街も造られた。
 1945年、第2次世界大戦で日本が敗れ、その後、中国共産党と国民党による内戦を経て、1949年5月、陳毅将軍により上海は解放された。
 中国共産党政権の下にあった上海が、改革開放の対象とされたのは、1984年で、広東の1974年よりは10年も遅れた。
 1994年、金融・貿易・情報などハードとソフトをリニューアルし総合的な機能を持つ近代的都市への戦略転換で世界的な都市へ変貌し、今なお、2010年、国博覧会開催に向けて大いなる変化を遂げようとしている。
 様々な異文化が共存し、なにごとにも進取に富む上海人の気質は多くの国家的指導者を輩出し、大都市の華やかさと近代史へのノスタルジーをかもし出す上海は世界の人々の関心を惹きつけている。
左側写真円弧型橋の向う両岸(右側写真斜張橋手前両岸)が2010年開催万国博会場予定地
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7.「宗教」について
 キリスト教会は、1984年ころから上海市内をもとより、長江沿岸市民が移住した新市街地においても再建され、その姿を見る事が出来たが、現中国政権下においては、父なる「神」を絶対視する本来のキリスト教の布教を認められず、従って、聖書や讃美歌集も所持を許されていないことを知って驚いた。
 仏教については、その詳細を知る機会を得なかったが、訪れた禅宗寺院において、浄土宗が本願とする素晴らしい六字名号「南無阿弥陀仏」の字体を発見し驚いた。礼拝に際しては、ロウソク、線香共に、過去、現在、未来を表す三本づつを供え、チベット仏教の基本である五体を地面に投げ出す「五体投地」礼拝のため、礼拝所には座布団が用意されていて、郷土「堺」の偉人・河口慧海(1866−1945)のあくなき探求心を思い出した。
8.エピローグ
 宜昌から、5星級の豪華観光船「維多利亜(ビクトリア)号」(5,000トン)に乗船した。
 乗船した翌日の夜には、船長主催の歓迎カクテルパーティーがあり、その他の夜にも、夕食後に、乗船従業員によるファッションショーや民俗踊りなどショウが開催され乗客へのおもてなしがあった。
 「三峡」ツアーの発足当初は、アメリカ資本が期限を切って始め、その間、中国従業員が見習うという方式で運営ノウハウを習得し、3年ほど前から、完全に中国独自の運営に切り替えられていた。「サービス」社会のとり入れが独自経営の中に位置づけられ、船内説明会や船内放送でも個人チップ以外に船内サービスに対するチップを求めるシステムには驚かされた。
 船内4泊の旅は、必然的に異文化交流を進めることとなった。特に、母親のたくましさは、国境を超える(?)のか、日本の硬貨(100円、10円、1円)を所望され面食らった。理由は、中国に深く浸透している日本のアニメ文化にあり、映像の中でドラエモンが使用する日本の硬貨が一人っ子政策の子供たちの間で人気を集め、ガイドを職業とする母親が留守中の子供たちへの何よりの土産物にするということだった。
 下船した観光地で、船着場からしばらくの間には、地元の地図や出版物ほかお土産類の押し売りが並び、その価格も船から遠ざかるにつれて、乗船に向けては、船に近づくにつれて大幅に安くなり、「半値八掛け、その5割」という不文律が現実であることを目の当たりにした。聞くところによると、その集団の中には専門のすりが身を潜めていることを後で教えられた。
 その一方で、バイキング方式によるレストイランでは、我々日本人の定席は末席に据え置かれ、日中間の冷えた間柄を身近に感じることとなった。

 日本の文明・文化の源流の国として、異文化の国として教えられることの多い長江文明「見聞読学」の旅であった。
 団長の田中様を初め、同行の皆様に感謝いたします。
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