千里庵(日本庭園 千里万博公園) 

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   <発表>
     ・行事: 平成24年 龍興山南宗寺塔頭 天慶院「山上宗二忌」法要セミナー
     ・時期: 平成24年4月11日(水)
     ・発表者: 前田秀一




<目次>
はじめに
五畿内キリシタン受容
茶の湯のキリシタン受容
まとめ
詳論目次
謝辞


 
はじめに
 「その比(ころ)、天下に御茶湯仕らざる者は人非仁に等し。諸大名は申すに及ばず、下々洛中洛外、南都、堺、悉く町人以下まで、御茶湯を望む。その中に御茶湯の上手ならびに名物所持の者は、京、堺の町人等も大和大名に等しく御下知を下され、ならびに御茶湯座敷へ召され、御咄(はな)しの人数に加えらる。この儀によって、町人等、なお、名物を所持す。」
 天正16年(1588)、山上宗二(1544〜1590)は師と仰ぐ千利休(1522〜1591)の秘伝を書き留めた『山上宗二記』の中で、16世紀の茶の湯の流行の様子をこのように記した。「数寄の覚悟は禅宗を全と用うべきなり」、「惣別、茶湯風体、禅宗よりなるにより出で、悉く学ぶ。」と書き、大徳寺の伝統を伝える南宗寺に集う茶人たちの規範となっていた。
 
       龍興山南宗寺 唐門          茶室 実相庵                 茶道具
 十六世紀という時代の背景は、応仁・文明の乱(1467〜1477年)後の世相を引きずって、まだ、戦乱の絶えない激しい群雄割拠の世相にあり、そのような中、天文19年(1550)12月イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル(日本滞在:1549〜1551)によりキリスト教という異文明が衝撃的に堺の港に上陸した。
 
 聖フランシスコ・ザビエル上陸の地芳躅碑(堺市櫛屋町)    南蛮渡来図 襖絵(西本願寺堺別院)
 イエズス会宣教師ジョアン・ロドリ−ゲス(日本滞在:1577〜1610)は「数寄と呼ばれるこの新しい茶の湯の様式は、有名で富裕な堺の都市にはじまった。その都市は日本最大の市場で、最も商取引の盛んな土地であり、きわめて強力なので、以前には、信長および太閤までの時代には、日本の宮都と同じように、長年の間、外部からの支配を認めない国家のように統治されていて、そこはすこぶる富裕で生活に不自由しない市民やきわめて高貴な人たちが住んでいる。彼らは相次ぐ戦乱のために各地からそこに避難して来ていた。その都市で資産を有している者は、大がかりに茶の湯に傾倒していた。また日本国中はもとより、さらに国外にまで及んでいた商取引によって、東山殿のものは別として、その都市には茶の湯の最高の道具があった。」と、日本の茶の湯の文化をヨーロッパに詳細に紹介した。
 
 堺市役所高層館1階壁面画 住吉祭礼図屏風 江戸時代初期 (原画:堺市博物館蔵、堺指定有形文化財)
 日本人キリシタンの柱石で、有能な戦国大名でもあった高山右近は、禅宗の一様式と言われた茶の湯をたしなみ、千利休の高弟七人のうち2番目に数えられるほど茶の湯の世界に受け入れられた。その後、牧村長兵衛、蒲生氏郷および織田有楽など利休七哲に数えられた茶人で大名でもある3人が洗礼を受けキリシタンになった。
 十六世紀、世界的な大航海時代の潮流の中で、日本文化の規範である茶の湯が戦国時代の混乱期に異質なキリスト教文明とどのように向き合い受け止めていったのか、茶の湯文化の側面から茶の湯に関する史料として評価の高い『天王寺屋會記』とイエズス会宣教師報告書にキリシタン受容の構図を追ってみた。
 『天王寺屋會記』の書き出しは天文17年(1548年)12月に始まり、その翌天文18年(1549)6月24日、三好長慶が「江口の戦い」(現の大阪市東淀川区)で仇敵・三好政長を倒し三好政権を樹立した。さらに、ほぼ時を同じくして天文19年(1550)12月上旬、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが都を目指して堺に上陸した。

五畿内におけるキリシタン受容の背景
 『天王寺屋會記』は、元亀年間(1570〜1573年8月)以前の三好政権時代に続き、天正年間(1573〜1593年)の織田・豊臣政権時代に大別され、キリスト教の到来による茶の湯におけるキリシタンの軌跡を記録していた。
 三好長慶に始まった三好政権は、管領を前提としない武家政権として成立し(1549年)、流通経路の要所を押さえる地域型の政治を行い、堺商人を茶の湯を活かし西国大名に対する外交政策の担い手と位置付けた。堺に三好一族の宗廟として大徳寺派の伝統を受け継ぐ南宗寺を建立し、茶の湯大成の拠点となった。
 都を目指したキリシタン宣教師の上陸地となった堺の港近くに住む堺商人・日比屋了珪は、キリシタン宣教師の活動拠点として自宅を提供し(1561年)、献身的な支援の一方、自宅にもつていた茶室を通して茶の湯の文化が堺で大成し、日本の武将や商人など富裕層の多くの交流の場として活かされていることを伝えた。
 
 宣教師が堺に滞在中、多くの人が聴聞に訪れたが、「その人たちはいずれも他郷の人たちで、堺の住民ではなかった。(堺の住民は)思いのままに悪習に(耽っており)倣慢不遜であって、主なるデウスが(恩寵という)宝を授け給うにまったく値せず、また(彼らはそれに与れるだけの)能力もなかった」と宣教師の間では堺の住民に対する評価は悪かった。
 
          深野池より飯盛山を望む                 飯盛山城跡からの展望
 三好政権の政治戦略で摂津国および河内国が栄え、河内国では最高の権力者の一人松永弾正久秀(霜台)の有能な家臣・結城山城守進斎忠正と外記(太政官)・清原枝賢がヴィレラの説教を聴き洗礼を受けてキリシタンになったのが大きな反響を与え、飯盛山、岡山、三箇、砂、若江など河内国の武将や住民の多くが洗礼を受けキリシタンになった。この時、松永弾正久秀の命により沢城主になっていた高山厨書も当時12歳であった高山右近を含め家族ともども洗礼を受けキリシタンとなった(1564年)。最盛期には、河内国および摂津国のキリシタンは4万人に達した。
 織田政権も同じく、交易拠点の支配に重点を置き、安土や摂津を重要拠点として国づくりを行った。織田信長は、茶の湯を政道と位置付け武将に対して許可制にした。茶道具狩りをおこなって名物を一個一城の知行同等と価値づけ権力に結び付けた。
 1573年、織田政権下で政治的に重要拠点である高槻城主となった高山右近は、主従関係にあった摂津国主・荒木村重から茶の湯の手ほどきをうけ千利休を紹介され師事した(1577年)。織田信長からは荒木村重に続いて茶の湯を許された。
 高山右近は、荒木村重が織田信長に対して謀反を計画した時、家族を人質に出してまで引きとめにかかったが失敗に終わった。意を決し自ら高槻城主を辞して信長の勧告を受け入れ、単独で織田信長のもとに下りキリシタン宣教師や信者を救済する道を選択した。神仏を否定し、キリシタンに関心を持って布教に理解を示していた織田信長は高山右近の行動を高く評価し、荒木村重討伐後、再び高山右近を高槻城主に安堵した。
 豊臣秀吉は、織田政権時代の茶湯政道を引き継ぎ、特に千利休を重用して茶の湯を大成させた。日本は神仏の国であるとの考えからキリシタンは悪魔の教えを説くと危険視し伴天連追放令(1587年)を発して迫害した。
茶の湯におけるキリシタンの受容
 キリシタンが、茶の湯の見聞録をイエズス会に報告したのは1565年10月25日付ルイス・デ・アルメイダ発信書簡が初見で、厳冬期の長旅による病気療養で25日間世話になった日比屋了珪の茶室における体験についてであった。フロイスは、永禄12年(1569)3月11日、上洛した織田信長に拝謁するために都へ赴く途中、ソーイ・アンタンという最初に都で改宗した名望あるキリシタンの家で賓客として茶室に泊められ体験した。

堺市 茶室 伸庵(大仙公園) 武者小路千家(堺大茶会にて)
 アルメイダとフロイスは、茶の湯に出会った機会は異なったが共に茶室を清浄で地上の安らぎを与える場であることを認めた。とりわけ司祭の資格を有するフロイスにとっては、茶室はキリシタンを集めミサ聖祭を捧げるに足る神聖な場所であった。
 ヴァリニャーノは、五畿内巡察の後、安土滞在中に「日本の風習と形儀に関する注意と助言」を著し、その中で日比屋了珪から得た情報をもとに茶の湯について触れ、日本では茶の湯が身分の高い領主たちに最も尊敬され、客に対する愛情と歓待を示す作法であることおよび領主たちが自ら茶を点てるために茶の湯を習っていることに注目した。
 さらに、ヨーロッパ人と日本人イエズス会員の融和、ならびに聖職者と世俗の人々との円滑な交流のための心得を説き、日本でイエズス会員が修道院や教会を建築する際には、「日本の大工により日本風に建築されるべきであること、階下には縁側がついた二室からなる座敷を設け、そのうち一室は茶室にあてるがよい」と記した。その成果は、織田信長自らが安土城のおひざ元に土地を手当し、高山右近の献身的な尽力もあって茶室を有する立派なセミナリヨ(神学校)として実現した。

安土城天守閣跡から琵琶湖を望む

 安土セミナリヨ跡から安土城址を望む          安土セミナリヨ跡         高山右近像(高槻城跡)
 高山右近は、天正2年(1574)日本布教長フランシスコ・カブラルから教理の再教育を受けてキリシタンに目覚め、自ら卓抜な説教者となり多くの人々を改宗しキリシタンに導いた。
 高山右近は、茶の湯を禅宗の一様式としてではなく芸道としてとらえ、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとかると悟り、日ごろ付き合いのあった利休の高弟7人衆(利休七哲)に機会あるごとにキリシタンの教えを聞かせ、牧村長兵衛をはじめ蒲生氏郷、織田有楽など多くの茶人をキリシタンに導いた。
 
           金沢城跡          茶匠・南坊(高山右近)   市中の山居(例、汎庵・万里庵(万博公園)
 しばしば、隠遁の境遇を求めたいと願ったが、領主の身分を維持してキリシタンの支柱となり五畿内のキリシタン宗団を守り通してゆく責任感を強くし、信仰がより堅くなるよう教育し、激励する立場が必要と考え率先した。
 高山右近が本格的に茶の湯に没頭したのは、関白秀吉が伴天連追放令を発し改易(所領、地位没収)された後、天正16年(1588)、豊臣秀長など多くの貴人からの嘆願により五畿内以外の地での行動の自由を許され、加賀藩・前田利家に茶匠・南坊(南之坊)として迎えられてからであった。それは慶長19年(1614)、徳川家康が発した伴天連国外追放令によりフィリピンへ亡命するまでの約26年間であった。
まとめ −「芸道」としての茶の湯、キリシタンの受容について
 キリスト教宣教師は、日本の社会支配の重要な位置づけにある有力者が茶の湯を尊敬し、生活文化の規範としていることを発見した。日比屋了珪は、都を目指して堺の港に上陸したキリシタン宣教師に帰依し、自らも洗礼を受けてキリスト教信者となり献身的に布教活動を支え、生活文化としての茶の湯を伝える役目を果たした。
 一方、高槻城主となった高山右近は、1573年、主従関係にあった摂津国主・荒木村重から茶の湯の手ほどきを受け、千利休を紹介され師事した。1574年、日本布教長カブラルからキリスト教教理を再教育され、あらためてキリスト教に目覚め、自ら卓抜な説教者となり五畿内キリシタンの柱石となった。
 キリシタンとして偶像崇拝を認めない高山右近は、禅宗の一様式としてではなく茶の湯を「精神を浄化し、救霊を成就する芸道」と受け止めた。つまり、仏教に通じる「禅」(座禅)の精神としてではなく、デウスの導きを深め、すがるための体験的な「道」としての時空間(市中の山居)と位置付けた。
 従って、高山右近は、ときおりキリシタン宣教師に「この道(キリスト教信仰)に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなるとわかった」と言い、また、「デウスにすがるために一つの肖像をかの小屋(茶室)に置いてデウスにすがるために落ち着いて隠退することができた」(ジョアン・ロドリ−ゲス『日本教会史』、p.638)と語り、茶の湯がキリシタンにとっても相入れ合う様式(文化)であることを伝え、日本巡察師ヴァリニャーノに「礼法指針」への茶室の折り込みを促した。
 キリシタンは、茶の湯を『山上宗二記』に述べられた「禅宗」の一様式としてではなく、心をかたちにする「禅」の一様式として、すなわち「数寄の覚悟は“禅”を全と用うべきなり」、「惣別、茶湯風体、“禅”よりなるにより出で、悉く学ぶ」と受け止めていたと考察する。
詳論目次
  1.『天王寺屋會記』に見る茶湯政道 
    1)三好政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記録 (表‐1)
    2)織田・豊臣政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記録 (表−2)
  2.五畿内におけるキリシタンの受容(表−3)
    1)五畿内におけるキリスト教布教の足掛かり 
      (1)フランシスコ・ザビエルの野望と挫折 
      (2)ガスパル・ヴィレラの再挑戦 
      (3)商都・堺での捲土重来−日比屋了珪の献身 
    2)三好政権下、河内国の武将たちのキリシタン受容 
      (1)三好政権の国づくり 
      (2)飯盛山、岡山、三箇、砂、多聞山、沢地域の受容
    3)織田信長のキリシタン受容 
      (1)織田信長の宗教観 
      (2)織田信長のキリシタンへの関心 
      (3)安土セミナリオ(神学校)建設 
  3.キリシタンの「茶の湯」文化の発見
    1)ルイス・デ・アルメイダの見聞報告
    2)ルイス・フロイスの見聞報告
    3)巡察師 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ「礼法指針」
  4.利休七哲 キリシタン大名・高山右近の生きざま
    1)高槻城主・高山右近へのキリスト教理再教育
    2)高山右近の茶の湯 
    3)伴天連追放令 高山右近の改易(領地・地位没収)
  5.茶の湯とキリシタンの受容
  6.註(引用文献)および参考文献
謝辞
 大きなテーマを設定して取り組んでみたのは良かったのですが、文献調査が進むにつれて改めて浅学非才な自分自身に気づかされ反省させられました。そのような中、臨済宗大徳寺派龍興山南宗寺塔頭・天慶院(堺市)で開催された「はなやか関西〜文化首都年〜2011“茶の文化”」協賛行事「山上宗二忌」(平成23年4月11日)にお招きいただき、大変有意義に学ばせていただいたことが大きな励みとなりました。また、堺市立図書館の蔵書検索システムにも助けられ本稿をまとめることができました。
 改めて、諸先達のご教示とご指導を仰ぎ、問題をさらに深く見極め、次なる目標設定に結びつけることができればと願っております。
 ここに至るに際して、史料として信頼性の高い茶会記録『天王寺屋會記』とイエズス会宣教師報告書を忠実に読み解くことを基本におきましたが、論の構成に当たっては関連する先学の玉書・玉論を広く学ばせていただきました。
 従いまして、先ずは、引用させていただいた文献および論の構成の基本を支えていただいた参考文献の著者の方々に厚く御礼を申し上げます。
 また、本稿に取り組むに際して、皆さまから関心と好奇心および動機づけに結びつく示唆に富んだお話を承りました。ここに、お名前を挙げて厚く御礼申し上げます。

   「山上宗二忌」主宰者・(株)つぼ市製茶本舗会長 谷本陽蔵様
   「山上宗二忌」事務局・堺市立泉北すえむら資料館学芸員 森村健一様
   「山上宗二忌」講演講師・静岡文化芸術大学学長 熊倉功夫様
   堺市立博物館学芸課長 吉田 豊様
   関東学院大学大学院文学研究科後期博士課程 スムットニー祐美様

 さらに、谷本陽蔵様と森村健一様には平成24年4月11日開催「山上宗二忌」に於いて本論の発表の機会を与えていただき、その際、臨済宗大徳寺派龍興山南宗寺塔頭・本源院(堺市)住職小野雲峰様から本論をまとめるにあたりよりどころとした「禅宗」と「禅」の違いについてご解説いただきご評価を賜りました。加えて、元堺市博物館館長・和歌山大学名誉教授角山 榮様と帝塚山大学非常勤講師・博士(学術)神津朝夫様には本論の視点についてご評価を賜りました。
 ここに重ねて厚く御礼申し上げます。
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